ヤイユ江ヨ いま(イの間)論の準備

ヤ◎ いま(イの間)論の準備

よしなしごとを書いているうちにヤ行にまできてしまいました。

アから始めて五十音図に沿っていますが、言霊五十音とは関係なく、単に番号がわりに使用しているだけです。五十音図を発音で理解していると、七十幾つあるとか、ヤ行にはダブリがあるとかになります。

また、表音の五十音図の成立と、言霊五十音図とは別物で、言霊五十音図の文献上の成立と思想の成立とはこれまた別のものです。ここでは、八千年以上前には成立していたと思える言霊五十音図の思想を問います。

言霊五十音図は発音の数ではなく、言霊の数の五十のことです。

ウアワヲオエヱ、七、(母音)

チイキミシリヒニ、八、(父韻)

イヰ、二、 (親韻)

の計十七と、

タトヨツテヤユエケメ、十と、

クムスルソセホヘ、八と、

フモハヌ、ラサロレノネカマナコ、十四の、

計三十二と、 (子音)

最後のン、(表音文字)

の合計で、言霊五十になっています。

ヤ行にダブリがあるとか七十幾つあるとかいうのは、表音の数を数えたもので、言霊の意味はなく、言霊の意味を後から付け加えただけのものです。

(もちろんよく考え感じて言霊の意味を付け加えていますが、作者の感じ方で皆違っています。ですので、言霊ナは子の内容といった意味を持っているのに、表音文字に言霊の内容を持っておらず、与えられた意味、価値、威力があるとすることを示すだけです。)

この言霊の順序、ウからン、は皇室の賢所にあるとされる秘本に拠ったもので、この五十の言霊がそのまま、古事記の冒頭五十神に配当されています。

(秘本とはいっても、その内容はこうして民間人が幾らでも手に入れられるように流出していますが。)

これは皇室の権威を借りるというものではなく、古代八千年以上前からの人のこころを見つめ探求した結果原理として抽出されたものです。

誰でもが使用できるものですが、わたしのように自分で追体験をして確かめていないと、自分なりのお気に入りの思い付きが入り込んで言ったり、巷にあふれる全然別な方向の言霊理解(言葉に宿るとされた霊的な力といった)に成ったりしていきます。

古事記の神々の名前とそれへの言霊の配当があるということは、古事記に記されている神など、例えば天の御中主の神という神様などは、そのものとしては存在していないということです。

秘本では天の御中主の神に言霊ウを配当していますから、言霊ウに何らかの理由で天の御中主という名前を与えたのです。その謎解きをしようというものです。

そうすると古事記の神代の巻は心の原理運用法を説いた原理教科書であるということが浮かび上がってきます。

上記にアイウエオ五十音を不規則な形で示しましたが、実はこれが、神名に配当された言霊の順番通りの記述で、意識の発生成長発音され、聞かれて了解し宇宙に拡がるそのままの姿です。つまり、古事記の神々の記載順です。

数は合計で五十ですが、ウは二つで一つで、ヤ行のイとワ行のヰは独立していて、ア行のイとも別です。

これらは全て心の運用上の理由からきていることで、発音現象で分けているわけではありません。

わたしの言うことなどどうでもいいから、早く勉強したくてうずうずしているかたは、下記サイト、島田正路氏のサイト、をご覧ください。どこからも文句の付けようが無い、自分の誤解曲解無理解理解不能早とちり思い込み常識や学会の正式な意見からする文句さえも解消してくれます。

http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/

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イ◎ いま(イの間)論の準備

言霊の原理は誰でも使用できるといって、私は書いていますが、真実を示しているのかというとそういうことではなく、単なるわたしの書き物です。もちろん真実を書いている人はいませんし、そこにあるのは個人的な経験に基づいたものですから、「真実だ」という主張があるだけで、無数の「真実だ」という主張の一つとなってるものです。

他の人の知らないこと珍しいこと、自由なことを書き主張すればそのまま、自己所有している真実を発表しているつもりになれます。

自分の意見の表明はそのまま自己所有している、自己に価値のある概念ですから、他者に向かうと直ちに自己=他者となって、自分の真実がすぐ他者にも真実になっていると勘違いしていきます。

あれは他人の言ったことと割り切ったつもりでも、それに評を加える時には他人に対しても他者の真実を代弁しているようなつもりになれます。最初から自分の主張だけを延べ合ってると了解していれば構図は簡単です。しかし、いずれにしても何の進歩もなく堂々巡りか他の方法を導入するしか解決を知りません。

そんなことを想いながら「黄泉国(よもつくに)」と「今」について私の「真実」を考えています。

そういうと、黄泉国とはこういうものだこう理解するものだと各人その主張をしたくなり、相手の意見を読んだり聞いたりすることが自己所有した理解の中に生まれますから、作り固めようとします。古事記では黄泉国の段落で次のように述べられます。

【ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。】

古事記は、【相見まくおもほして、、、愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、】と、自分の片割れに執着し愛着を抱き、さらには一緒になろうと自己所有物であるかのようにあつかおうとしています。全く万人の真実を語っているところで、まじめに読み込むことはせずにそのままそんなものかですましてしまうような場面です。

黄泉国というのは客観現象の世界のことで、死んでいようと生きていようと客観現象に囚われていればみんな黄泉の国にいるということです。仏教ではその囚われから脱するのに解脱とか悟りとかの体験世界へ導きますが、古事記では丁重にその起承転結を語ってくれます。

そこで、イマと黄泉国の関係です。

客観現象を実体とするのが黄泉国を扱うことですが、扱うことはイマのなせる技ですから、つまり妹伊耶那美を思うことが黄泉国に落ち込むことです。客観相手対象を実体客体と扱うだけで黄泉国に入るということになります。あのことを思いこのことを思うという全く日常のことです。日常は黄泉国を作りつつ進行していきます。

段落の終わりに「伊賦夜坂」というのが出てきます。「言うや性」であり、言う事の性質が夜でよく見えないことを言ってものです。出来上がったものに対してあれこれ言い出すので、規範を持たない場合には、見地思い、気づき閃きの相違で騒ぐことになり、規範があればあったで主観的な判断断定に導かれるということです。

イマは今動いている過去から未来へと今の現れている全体を含みますから、それに応じた規範を持たないと対応できません。黄泉国ではあったものがまあるだけで、それが今後の未来へ向かうときには過去概念の、過去経験の整理からでる判断によって、同じ条件なら反復するだろうというだけです。典型的には温故知新などといっていますが、反復するだけのことは保証されるかもしれないというだけです。

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今年の漢字が「金」ということですが、詳細は、「25万8912通の応募のうち、最多の「金」は9156通だった。読売新聞」とある通り、二十五分の一の投票数です。

単なる多数を選択する坊主、主催者の悪趣味がうかがわれます。

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ユ◎ いま(イの間)論の準備

黄泉国を死者の世界としても、黄泉へ行く前に生きていたということがなければなりません。生きていたという前提があって黄泉があるのです。

死者には死者の見方があると、客体側からは客体側からの見方があるという主張がでてきます。

言霊学では黄泉は客体世界ですから、やはり実体が創造されていることになり、おなじ構造の内にあります。主体側の働きがあって客体側をみることになりますが、客体側世界は主体側が創造したものです。

自分で生んだ片割れを黄泉国に放り投げて、そこの場面で実体と働きを謎々みたいにして語った文章がひふみ神示にあります。

「ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、ことにもなるのであるぞ、とも言へるのであるぞ、、、」

火の神というのは【火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神を生みたまひき。またの名は火(ほ)の炫毘古(かがやびこ)の神といひ、またの名は火(ほ)の迦具土(かぐつち)の神】 言霊ン のことで、現象実在の総体を示します。

イヰ(イザナギ、イザナミ)の神は八父韻を介して現象(十の卵)を生みますが、客体と固定され向こうに置かれてしまうと、「八つ生んで二つ残し」たことになります。こちら側には十があり、あちら側には八があってあっちとこっちで「イヰ」が残され、共通部と独立した部を数えると十二になっています。そこで生死全体から見ると「十二の卵を十生んだ」と言っています。同じことを実在次元に当てはめると「五つの卵を四つ生んだ」ということもできますが、実相を言わないで算数の象徴を用いただけのもので意味はありません。

古事記では黄泉国の段落でこのことを扱っています。神示ではそれではどうするのかと述べていません。ただ「その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。」というだけです。

ひふみ神示では「うれしうれし」等の直接理解できる言葉を選んでファンになっている人が多いですが、実相は隠されていますから内容は無いといってもいいものです。というのも理解できるように隠されているのではなく、もともとわからないように隠されているので、幾ら読んでもお気に入りの言葉を選択し、懐にする以外に内容はありません。

もともと古事記を種本として古事記の思想に目を向けさせるためのものですが、訳者たちにまるで自覚が無いため古事記とは縁遠いところを回っています。

古事記やひふみ神示を黄泉国にあるものとして読んでしまわないために、すこし言及しました。

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江◎ いま(イの間)論の準備

古事記は心の精神原理教科書ですから、黄泉国があるということは心の黄泉があることで、心の動きの途中に必ずできあがり現れてくるものとして扱われています。生が終わって死んだ後にあるというものではなく、生きていくことが黄泉国を成立しつつ動いていくことです。

黄泉国は精神でのできごとですから、まず、精神が生きていることが前提です。つまり、黄泉国を思ったり考えたりするには我々が生きているから、黄泉国なるものを思うことができます。ですので黄泉国が世界のどこかの地中にあるのか宇宙のどこかの空間にあるのかというのは問題にしません。

一) 心にできる黄泉国ですから当然各人が生きている間のできごとです。実在物としての客観実体を黄泉とすれば、五感感覚で感知できる黄泉の実在が必要です。しかしそんなものはありません。

二) また、五感感覚を含めた意識で認知する黄泉をあるとすると、認知する側の相手対象となる黄泉があることになります。これは主体側の対象となる主客の関係を持ったものとなります。主体の活動に対する、客体の活動を表す関係での黄泉世界です。

三) ところがここに、物質の客観世界と意識の対象となる二つの黄泉世界の他に、イザナギの持つ黄泉世界があります。(今は黄泉のことを喋っているから黄泉というだけであって、他のことに適用してもかまいません。)

イザナギというのは自分のことです。このイザナギが自分の心の内に黄泉(その他)を打ち立てる場合の時のことです。

古事記の黄泉の段落に至るには、黄泉を引き合いにすれば、先天の黄泉から自己主体領域の黄泉とその活動領域ができて、黄泉の現象要素ができ、ついで、現象を創造して物的な形を取り現象としてはその独自の運行に任せられます。そこで黄泉という客観対象は神去りして物質世界のこととなります。これが(一)でイザナミの埋葬のことです。

それを意識で取り上げるのが(二)で、客観実在を意識の相手対象として主体客体の関係の中に置きます。普通の主客論がここから出てきます。

古事記の凄いところは、主客の成り立ちを説明してしまうことです。

(二)の客体があることを主体の働きの相手とするのは誰でも普通にしています。生理器官を持ち出したり意識や記憶を利用したりして説明されていきます。しかし、その説明の根拠が説明できないので誰も言い出しません。つまり、こういうことです。

例えば画面の〈画面〉という字を見て「画面」と納得了解する根拠を自分に見いだせないということです。学校で習って覚えているから、その概念知識と〈画面〉という文字との類似同一性相似性のおかげで「画面」と言っているわけです。ここまでが(二)の主客の問題です。

さて(三)はその根拠が、全く主体側自身内のことでしかないことを説明することです。

相手対象としての「画面」は向こうにあります。主体側はそれを認知して主客の関係をとた結びます。客体側は黄泉国にいる死んだイザナミです。それを生きているイザナギの頭の中に導くことがひつようです。その説明が感覚器官であり意識作用でもたらせられるわけです。

このイザナギの頭にもたらすことから(三)の段階の黄泉が始まります。何しろ相手は死んだイザナミです。黄泉国にて生きている形をとらすには、二つのことがあります。一つは単なる自然の過程内での作用反作用での変形で、動いているような見かけを得ることで、もう一つはイザナギが主体の相手対象として生き返らすことです。これで、主体意識の対象としてはイザナミは蘇りますが、生きて蘇るのではなく、死んだままの形で蘇るのです。

ややこしい言い方で申し訳ないが、当方の頭の限界であるし、人間知性の限界でもあります。つまり、問題は考えて書いていったり、書きながら考えていったりしている限界ということです。古事記の記述に従ってしまえばいいのですが、やはり謎は解かれないと面白くありません。

イザナギの(三)の黄泉とは【 かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時】

というイザナギの黄泉国の主体規範を持っているということです。

この灯火が(三)のイザナギの黄泉となっているものです。

イザナギの主体内にこの黄泉の灯火がなければ生きたイサナミとあうことはできず、死んだイザナミを見るだけです。

今とは何かという問題に該当させれば、私が「イマ」という灯火の規範が無ければ何も解決できないということになります。

全然公式とも常識とも正式とも違うことを言ってるようにとられてと思います。ことさら奇をてらって思いつきの奇抜さを紹介しているのでもありません。

例えば自分がこのように書くこと誰かがこのように読むことの日常行為に自然に生じていく、思惟行為の動きを古事記の黄泉国から現代語に訳してるようなものです。深読みとか曲解とかでなく、古事記を通して心の真実に向かおうとするものです。

それでも黄泉国をそう解するのは全然受け入れられないということでしょう。同じ論理がこちらにもあり、黄泉国をどこかに探すのは二千年(!)以来の誤解であると言っています。

それではどうなんだ。どちらが本当なんだと言うのが、黄泉国の内容です。黄泉国を場所として探す人は見つければ正解になるし、死んでから見つけるつもりの方はそうすればいいし、黄泉国を心のこととするなら今すぐできます。

後はどれかを選択して自分で確かめればいいのです。

この選択確かめ方そのものが黄泉国の話です、と、こちら側は言いますので気に召さない方はそれぞれの行為選択をしてください。

参考までに段落の始めを紹介しておきましょう。

【 ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。】

実際の場所を探している方は幾ら頑張っても見つかるはずは無いのですが、そういった努力は今もつづいています。

実際の場所から少し後退して、死者の世界であるとする方はいろいろなイメージ勝負になりますからあんまり突飛なことにならないように。

生死の境を超えてあちら側の世界にいくという、確かめたわけではないがそんな思いを持つ方は、どうしても魂とかあの世とかの実在を設定しないと自分の言葉が続きませんので、やはり適当なところで切り上げないと妄想呼ばわりされそうです。

言葉を扱って済ましたいという方もいるでしょう。黄泉は中華の言葉ですが言葉の探求だけでも大変な労力がいります。

黄泉は大和の「ヨミ」という言葉に漢字を当てはめただけで、漢字以前の「ヨミ」という心持ちがありました。大和の「ヨミ」という心持ちを無視して黄泉の漢字を該当させても中国人式の黄泉国理解になるだけです。

もし古事記の黄泉国の段落に、こういったようなことがどのようにできて、どのように人の心持ちを占領し、どうしたらそれに支配されずに済むのかというようなことが書かれていたとすれば、どうなるでしょうか。

まずは発見してみましょう。

【 ここにその妹伊耶那美の命を=自分の片割れです。自分の創造したこと思ったこと考えたこと主張していること等々。

【相見まくおもほして、=自分の作ったもの主張したものは思いついたものはいとおしいものです。

【黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。=いとおしく会いたくなるその心とは何か。執着愛着による幽霊を、黄泉国を作ることではありませんか ?。

とんでもない。喜びの期待、愛の確認もあるでしょう。

死者とですか。

そうだ。いとおしさだよ。

それは心ですね。しかも、死んだ相手には通じない自分だけの思いです。それはあなたの主観です。こんな言い方をされると悲しくなりますが死んでしまった相手、出来てしまった主張、書かれた話された言葉等々、には通じません。返って形となったものがあなたをとらえようとします。そこでより執着愛着を起こしたら黄泉に囚われます。抜け出られませんが、自分の半分は確保したつもりになれます。なぜならそこにあるのは自分が作ったものですから。

書けば書くほど自分の黄泉国をつくり、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。

黄泉国をやり直さないと駄目なような気がしてきました。

黄泉国=執着からの解放の準備

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ヨ◎ いま(イの間)論の準備

黄泉国は精神の客観世界のことで、出来上がった世界のことです。ですので「イマ」との関係を考えるときには少々特別な関係になります。というのも出来上がってる世界には未来はなく、未来へ向かって動くことが無いので、過去-今-未来へ流れる方向はありません。

ところが日常生活ではあれこれ、こうだああだと過去にあったことに言い合いをしています。過去に対して言い合いをしていますとあたかも未来へ通じる道を開いているように思われてしまうこともあります。このことを古事記の表記では【 一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、蛆(うじ)たかれころろぎて、】と書き示しています。

つまりの「過去-今」のあり方を取り上げてその範囲の中で「過去-今・今-今・今-未来の流れ」を概念で再構築しているのです。

過去の話を取り上げるときには、黄泉国が二つあることに気づきます。前回の二と三のことです。主体側に取り上げられた客体側で、出来上がっている相手対象となるものと、その対象を今現在意識している時に主体側において客体側であることを意識させている主体内の客体です。ややこしい言い方で申し訳ない。言い換えると、今客体側を意識するための規範に比較される頭脳内の客体と、出来上がったあっち側にある客体です。

例えば、「客体です。」とパソコンの画面に出ていますが、これが出来上がってしまった客観世界で、それを読み認識する時には、頭脳内において「客体です。」を了解する納得するための規範がないと、字を見ているのか絵を見ているのか判断がつかないのです。前者が死んだイザナミの世界で、後者がイザナギの主体内に生きているイザナミの世界です(同様に黄泉の国と呼んでいます。ヨミ・四の実、四つの次元世界の実となっているもの)。

古事記ではこの判断の用い方が詳しく示されています。これは判断する側の主体に係わるもので、客体側自身が動き自分でしゃべるわけではありません。(これを喋らすのが物質科学認識分析の役目となります。)イザナミは死んでしまっていて、ギの命一人だけですから、ギの命の取り上げる客体世界というのは、イザナミの出来上がった世界の形を借りたギの命の世界にならないと、ギの命の働きが有効でなくなります。

ここには、イザナギの主体内に過去-今-未来の全過程があります。この未来をも目指すイザナギの力動因があるので、過去のイザナミを取り上げても生きているイザナミがいるように見えるのです。これが過去を取り上げても未来につながっていると思える根拠です。

そこの手続きを古事記の黄泉国の段落では、判断の過程を、その前提から、実在次元の母音世界、父韻の働き、判断が取り上げるもの、判断する上で主体側に欠けているもの、等が示され、次段の禊ぎ払えに向かうという、凝りようです。

イザナミはいませんが彼女の世界をとりあげるやいなやイザナミの全世界状況が目前に繰り広げられます。ただし主体である自分自身が成すこととしてですので、死んだイザナミが相手をしてくれるわけではありません。

ここの所を古事記は美の命が追っかけてくるように記述しています。その意味はギの命が囚われ落ち込む各地点のあり方を示し、黄泉国に堕することのないように段階を示すためです。ギの命の思惟行為に付き物の(つまり誰でも全員に付き物の)黄泉国へ堕していく必然のきっかけをその都度示してくれています。

またこれを、さらに上位の見地から見れば、次段の禊ぎ払えの内容を示すためでもあります。この必然的に誰でもが黄泉国に堕していくことがあるために、禊ぎ払えの次段が用意されていいます。禊ぎ払えとは何をするものかが黄泉国で示されたわけです。

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