3-4 今とは三のこと。今の実・み。

物の二態と物の三態、、、十七態。

同じ物事でも物として捉えると有る無しの二態になり、流れとして捉えると過去現在未来の三態になります。

二態は物事の表裏、主客、私とあなた、作用反作用となり、三態は物事の時間の流れの生成消滅、成長変化となります。

主客の私とあなたがいて物事を見ると、私自身において見ている主体的な私と見られている受動客体的な私がいます。私自身の二態です。これは私と相対する二物の主客ではなく、私の意識内の主客をいっています。

さらに戻ると、見る私と見られる私は表裏の関係ですが、そのようなものが有る無しの関係として捉えますと、そういったものがまず一つあるので一の全態があります。全体と言うのはそれ一つしかないので全体、一、です。まだ剖判も主客も無い段階です。

そして全体の一には全ての芽・眼がありますがどれ一つとしてこれと言うものは無く、これぞここぞという主張されるものは無いのでゼロです。しかしゼロがあると気付くと、そこにあるものがあると了解できますから一があります。

この場合の一は眼を開けた瞬間の一で、視点が定まり画面があり眼鏡があるといった特定の物を現象化した一ではなく、眼を開ければあるものが実際にあるという全体の一です。

こうして、吾の眼が付いて気がつくまでは天地宇宙はゼロですが、気付いて智についた時点で一となり、一を見ている自我が起きると見られる相対者も意識しますから二となります。

ここにあると言うものの二者を了解しますと、あるものがあり続けることになり、時間の流れと実在の実体と意識する人間との三者ができます。

この三者の交わりあうと現象の要素となります。現象は世となり、意識の四つの要素を構成していきます。こうして現象の要素が前もって準備されます。

その後で、現象の要素が意を受け、意志として発現して、その位を定め、為に載って、それぞれの次元世界を構成していきます。これが五番目に現れる五(イ)の間です。

これらは持続的に起きるように書いていますが、また同時に瞬時にも起こっていることです。それは次の瞬時と順次の「今」として次々と十七態まで渡ります。

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一二三ということ。

何も無い「中主」に気がつくとそこに「中主」一つしかないことが分かり、分かるということは、分かる自分と分かる相手が相対していることが分かることになります。

分け分かることが分かるとそれは取りもなおさず、それを分かっているという時の経過を得ていることになり、そのことは物の持続の姿となって、姿と時の経過による形態形状の違いを得るようになります。ここまでが一二三です。

中主の主が出てきて、中今ができました。

実在の姿とその持続は意識にとってはイマココにあるというだけに留まらず、あるものが前から引き続いてイマココに現れたことを示し、イマココにあるものがこれからもあるだろうことをも示すようになります。すると今あるものがココにあって、それは前から来たもので、これからもあり続けることを、全体として眺める意識も出てきます。

こうして意識の要素が三つの次元に分かれていきます。

あるものが意識の五感で今ある時点でしか捉えられないもの、見たり聞いたり等はイマココでの対応でしかないものです。

次にイマココにあるものと思っているものが、実は過去の記憶概念として既得のものを再現しているだけでそれに対応している次元があります。私達の学習した全ての知識や概念です。自分のものでないのにイマココにあるからというだけで自分のもののようにあつかっています

非常に重要なもので、意識活動の大きな部分を占めています。

次に記憶されていて保存しているものをどのように扱うかの次元があります。前記の記憶概念の活用ですが、知識とは全然別の次元です。よく知識だけで実践が無いというような批評がありますが、別々の次元を重複させ混同しています。実践には温故知新の過去知識ではなく、新たな実践規範を対応させることが必要です。

こうすることで今ある過去知識を創造へと導くことができるでしょう。

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「ある今」は「ある今」だけじゃない

変な題名です。「ある」というだけなら一般的なあるです。個々の何々があるということを指していません。

それでもあるというだけで通じるのは、一般的なあるが了解されているからです。

ここにリンゴがあるというときには、帳面や鉛筆でないリンゴがあるのですが、それは帳面ではないというだけで何処のどのリンゴかは不明です。他の事物に対してはリンゴですか、リンゴそのもの一般性を指すだけです。そこでそういったことを繰り返すといつまで経っても一般性から抜け出せません。

ところがさらに面倒くさいものが加わります。一体リンゴという言葉はどこからきたのかです。

リンゴをここで見ていなくてもリンゴを知っているし、見たらただちにリンゴと言えます。それは言葉の記憶概念があるからですが、全く個人的な記憶概念ならば他者には通じません。

一般的な内容の無い裳抜けのそれでいて全ての人が了解できる「リンゴ」なるものがあるから、自分の言うことも他者を聞くこともできます。

ではリンゴがあるのでしょうか、言葉だけがまずあるのでしょうか。

目前のリンゴは五感感覚で知覚されなければ無いも同然です。そこには客観的にあると言う人もいます。自分はいなくても客体としてあるというわけです。しかし、誰もその客体を示した人はいません。

また言葉がまずあるというと、客体はあるが人がいなければ言葉も無いという言い方もあります。

これらは時空の前後の脈絡の混同や、一般と個、客体側と主体側の混同から起きます。

頓智みたいに人がいなければ宇宙世界は無い、宇宙世界があって人が誕生した、というのもあります。

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対になった言葉たち。

対になった言葉たち。

そこで対になった言葉たちを考えてみます。

主客の取り方も様々です。場所的にあっちとこっちと取ったり、始まりは終りの始めになったり、私と彼

女(彼女と彼)、社会と個人、国家と個人、組織と個人、自我と対象、見るは見られる、感じるは感じ

られる、離れるは近づくこと、等々相対するものがあると様々な言い方がでてきます。

二は三を生じるといっても二つがあるだけで三が生じるのではありません。私とあなたという実在が

二つあっても関係が無ければ何かが生じるのではないのです。さらに実を言えば実在の二つ・主客

・私とあなた・があって、関係があるのではありません。客体側・あなた側とは客体としてある私とい

う主体に相対する、あっち側の物質客体を指したものではありません。

ここが大いに間違えるところです。私達は相手側の物質世界を客体として捉えていることが往々で

す。ですがよく見るとそういうことではありません。自分の向こうにある客観対象たる物質世界では

なく、私の意識における見られるもの、私の意識に相対するものを意識しているのです。

私の向こうにある客体物質の世界はそのままであるものです。

眼を開けて物を見るなり、手で触るなりして客体側があるという感触を得ますが、それは五感感覚の

作用反作用に過ぎません。物質としての反応です。感覚の範囲内であるとかないとか言うものです。

そこには別の次元、意識の次元があります。

眼で見て触って感触を得て、その感触の持続を得るときも、皮膚の残留感覚はありますが、そこま

でなら生理反応です。しかし意識の次元では、翌日までも、数年、一生の間までも感触が続きます。

さらに言語においては言葉を解する全ての人に言葉の指す内容の実在感を与えます。リンゴといえ

ばリンゴが目の前に出てくるのです。

そこには私の思うリンゴと、私によって思われたリンゴと、言葉によって示されたリンゴがあります。

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今とは実(三)のこと。

三を実(み)とするのは語呂合わせにみえます。二に一つ足して三になると思っているならば三が実となることはありません。二つの百グラムの肉にもう一つの百グラムを足しても、足した肉は三百グラムにはならず百グラムのままです。ところが男(おしべ)と女(めしべ)があると実(子)ができます。三と見えたのは量りの目盛りで肉ではありません。ところが男と女の二者からは第三者の実ができます。

この語呂合わせは、あるいはこじつけは、古事記と神名に共通したものです。まず古事記というものからして、故事記、故(ゆえ)ある事を記したもので、どのような故かと言えばこじ付けられたものです。記は下町の飲み屋飲食店などで「付けておいて」と月末払いにしてもらうと、棚からつけ帳である、記帳をだして記載する時の記(つけ)帳の記です。故ある事を記録(こ・じ・つけ)したものです。

古事(ふること)を記したというのも普通に通用していたこじつけです。しかしその内容を神話にしたりアニミズムにしたりにするか、人の意識の原理にするかの違いです。

冒頭の一句である「天地。あつち」も中華式に解釈理解するのか、大和の日本式に理解するかの違いがあり、ここでは吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成すというように、心が創造するあるいは心が創造された意識の原理論として解しているわけです。

そして古事記はそのように読めてしまったので、これで間違えの無いことになりました。(一般には通用せず理解されないということは別の問題です。また間違えが無いといってもそれを語るものが全て真実を語っているということでもありません。おのれの心の領域に同じ柱を立て御殿を拡げ発展させることができるということです。)

さて、今が何故実なのかを示さねばなりません。

今まで今が一である二であると言ってきてここでは三である、になっています。さらに十にまで行きますが、これは思考のトリックではなく全て今自体の説明です。一つの今が十に解説できます。しかし怪人二十面相のように顔を変えるお面を付ければ三十にも四十にもなるのではなく、十しかありません。

人の意見は人それぞれなのに十しかないというのは受け入れ難いように見えますが、基本原理上でのことです。ですので十以上はあるように見え、多様に見えるだけで十に分類できる同じようなことに分類されていきます。その内の三つ目で今を実と見るということについてです。

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一から十の今へ・ひふみよいむなやこと。

始めは今が有る無しのものとして現前してきました(一)。そこで有る無しと気付くこと自体が同時に、気付いている主体と気付かれる客体側に剖判していることに気付きます(二)。と同時に又もや、主客の違いに気付くと客体が向こう側の過去からやってきたものであり、自分を巻き込んであっち側の未来へ向うものである何かしらのもの(実)を持っていることに気付きます(三)。

これら全てが今という同一時空内での出来事となっています。(この後、十まで続きます。十になると有る無しの空(一)に戻ります。)

三の実があることに気付きますとその実の内容に気付いていきます。それが今の四(世)です。ここまですと四つを経過しますから四であり、四の内容は今までに通過したものの四でしかありません。それが意識に与えられた世であり、その人の意識が考慮できる意識の四・世です。

有る無しの一あるいは一の全体であると思えていたものが、同時に四で構成されていました。一つの全体はここでは四つの多様になっています。多様を見て意識するとそこに、いるものがいる、あるものがあるということに気付きます。すると直ちにここに今とはいるという意識、いる、生きている、息するという五つ目の意識が生じています(五)。四つの世と自分の世で生きている全体がイの気となっていることに気付きます。それが今持続してイの気の息が絶え間のないことが生きていていることになります。

自分のイの気に気付きますと自分は四つの世になったイの気の対象があることに気付きます。と同時に自分のイの気は四つのイの世と結ばれていたことに気付きます。その全体が今結ばれる、今結ばれていた、今これからも結ばれるの、む(六)です。

これらをあめつちに配当しますと、

あ・一 ひ。

め・(一) 二三四 ふみよ。

つ・(一二三四) 五・六・七 いむな。

ち・(一二三四五六七) 八・九・十 やこと。

こんな感じになります。繰り返されるのは前承する言霊循環のためです。

ついで七(名)です。今の六までで自分と相手対象結ばれていることに気付きました。ということは同時にむすばれていることのそれぞれを意識しているので、結ばれたものがものがそれぞれあり、それぞれの仕方で結ばれていることを示していることになります。そこで何によって結ばれているかといえば、相手対象となっているものの名(七)によってです。

(名が付いているものや付いていないものや不明なものもありますが、意識の対象としてそれらに差異あるもの、あるいは対象の本質を指すものとして名の付いた形で現わされていきます。名(七)です。五感感覚で知覚して結ばれているのではありません。五感による知覚は生理的なもので、生理の作用反作用等の物理反応というだけです。)

さてこの名(七)によって結ばれた(六)自他の意識(五)の対象となっている世(四)の実(三)の存在の認識(ニ)となっている内容を何だと確認(一)するのです。

こうして名が付けられて起こることは、今という実在の現在が構築物として現前することです。構築物とは意識による家屋のことで、屋を八(ヤ)としました。(父韻八種による構築物・屋です。屋根という表記は家のてっぺんに屋根の根っこがあるという分けの分からないものですが、父韻八種を根とするということです。)

家屋と屋根には母父が揃っていますから、当然今という家屋には子ができますが(古事記は子事記という話をどこかでしたことがあります。)、今現在の今の時にはまだ子、つまり九(こ)はできていません。今まで一は同時に二で、二は同時に三で、三は同時に、、、でという風に話してきました。

ここでは一という同時に九は、子(こ)ではなく、つまり子という第三者の現象を産んでしまったものとしてではなく、産む子を秘めているということに留まります。

(大宣都比売・言霊コ・おほげつひめ・大いに宜(よろ)しき都(言葉のみやこ・霊屋子を秘めている、参照。)

子を産むことと、産む子を秘めているとでは全然別のことです。十はと、戸のことで、内側にいる分には九の続きですが、戸(十)を出てしまえば、一続きの今であった一から九とは違って、新しく創造された次元に立つものです。